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2010年5月16日 (日)

「不完全性定理」の位置づけと意味は何を語るのか?

日本人が明らかに弱いというか理解していない点が”ものごとをどのように捉えるか?”や”思考の対象をどのように位置づけるか?”に関する点だと思う。

これを表す顕著な例が、クルト・ゲーテルの「不完全性定理」の位置づけと意味の理解を日本人がどのように把握しているかである。

ここでの議論はクルト・ゲーテルの「不完全性定理」の証明をきちんと出来る・出来ないを焦点にしていないことに注意。

クルト・ゲーテルの「不完全性定理」の背景と出発点の理解が焦点である。

(専門家以外の)日本人が盲目的に「不完全性定理」はよく”人間の理性の限界を示した”などと言うことがある。またそうい文章を書く人を見かける。

これは”契約形式主義(一般的に言う公理主義立場)”という立場で物事を考える場合の限界を述べているのであって、他の立場をとる科学者や哲学者なら「不完全性定理」に対して全く証明している対象の前提や土俵が異なる点に注意すべきだ。

正直、論理学の巨人であり大天才のヴィトゲンシュタインのような哲学ならクルト・ゲーテルの「不完全性定理」が”人間の理性の限界を示した”などと全く思わないと思う。

そもそも、「不完全性定理」自体が意味がない事を証明していると主張するかもしれない。

彼の場合、ラッセルやゲーテルの活動の概念の捉え方や定義にそもそも大きな間違いがあると主張していた。

ヴィトゲンシュタインは、ラッセル達と日常言語の持つ意味や機能、命題関数の位置づけと解釈に異論を唱えていた。

ラッセルのタイプ理論も全く不要なものであると主張していた。

さて、「不完全性定理」だが、このように哲学や論理学の立場によって大きく位置づけや価値が変わるものである。

重要な点は、このような背景や位置づけを理解したうえで「不完全性定理」を考えることである。

異なる立場でも同じ立場でも意見や解釈に違いがあり、それぞれが何を意味しているかを自分で考えることが大切である。

今の日本人は考えをせず鵜呑みにする傾向が強い。

公理体系は無数に存在するが、公理主義の立場をとれば必ず「不完全性定理」に突き当たる。

これはコンピューターの世界と等しいということが知られているが、人間はコンピューター以上の物であることはゲーテル自身がやはりそう考えていた。

逆に言えば極限られた範囲について扱うのが公理体系であり、公理とする定義から定理を演繹的に全て導き出そうとするアプローチに限界があることを不完全性定理は述べたにすぎない。

ことは別に不思議でないし、人間の知性の限界でもない。

また、公理となる定義を証明なしで決定するのは、「証明しようが無いので仕方なくそうします」ということである。

公理となる定義は「そう決めたから」というのが公理主義の採る立場である。

現在の哲学、量子力学、天文学でも、時間や多次元などの議論が行われている。

これまでの数学や論理学の標準であった従来のような古典的な形式主義の立場をとらない科学者は多く成っていると思う。

量子力学でも天文学の議論でも最先端になれば、なるほど従来から形而上学と言われた本質的な議論に立ち返らなければならない。

これまでまずまず上手く機能してきた、契約的形式主義のアプローチは、この点を扱わなかったので、やはり仕方のない事であるが限界があるのは当然であるし、公理主義に何を期待するかという前提を確認しないといけない。

=HSCI Takanari Hashimoto(URL:http://hsc-i.com/)=

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